桜見環状線一周旅 ーその1 戦国最強の寺内町と天下人の居城ー
どうも、まともに更新数を稼げないまま新学期を迎えた既望路です。
本日よりまた学畜&バイトみっちり生活が始まるわけで…
(タブレットPC欲しい)
新たな学年へ進級したわけですが、特に目新しいことはありませんね
(卒業に必要な単位は大方揃ったので、興味のある授業を取る余裕ができたぐらいですね)
さてさて、桜が散る前に更新してしまいたいところでしたが、あっという間に散ってしまいましたね
(さすが儚さを象徴する花だけあります)
というか今年が早すぎたんですよ
なのでノーカンです(ぇ
というわけで今回はお花見の記事になります
え?やっと2年遅れに回復できたのかって?
3 年 前 に 決 っ て い る で し ょ う
左上のフッターをご覧になれば分かるかと思われます
(スマホの方は見れない…?)
まあ、さっさと本編に入っちゃいましょう
では、どうぞ
パンパカパーン と咲いた桜の花
時は2015年4月2日です
3年と9日前ですね
夜が明ける前に家を飛び出し、自転車を漕いで西へ西へ
徐々に辺りが明るくなります
家を出てからざっと1時間
JRの京橋駅に到着しました
~京橋駅について~
京都~大阪を結ぶ京街道の起点として江戸時代から栄えていた京橋地区に位置する駅
現在でも大阪ビジネスパークが位地することから、朝から晩まで社畜サラリーマンがいっぱいです
大阪環状線の他、学研都市線・JR東西線、京阪本線、市営長堀鶴見絵緑地線なども接続している割と大きい駅です
(JR西の中では4番目、京阪では一番乗降人数が多い駅になっています)
名前の由来は近くにかかっている橋、「京橋」より
飲食店や歓楽街がある京橋駅周辺のイメージに合うからだそうで
京橋は上にもあるように梅田や難波に次ぐ繁華街で、遊びに行くとすればこの辺りになります
この大川は元々淀川の一部でしたが、明治時代に水害対策として川の付替えが行われたため、こちらは旧淀川となりました
朝の街路樹、さくら色満開
「さくら」「サクラ」「桜」「Sakura」
表記が異なると、受けるイメージもまた変わりますね
日本語の奥深いところです
このバックが白くなると途端にピントが合わなくなるNikonP500さん
一眼なら対処できるのでしょうかね
朝はもっぱら3ドア特急ですね
のんびり桜を眺めながらの撮り鉄というのも乙なもので
朝ラッシュ時には車内が阿鼻叫喚の巷と化す8000特急
(プレミアムカー工事による7両化の時は死ぬかと思った)
頭半分突っ込んでるビルが京橋駅の一つとなり、天満橋駅となります
下を流れているのは大阪東部から流れてきた寝屋川ですね
この橋の向こうで先程の大川と合流します
さて、ここから京橋を渡ればそこには大きな石垣
大阪城の京橋口になります
こちら、大阪城の見どころの一つでもある「肥後石」です
比較するものがなくわかりにくいですが、でかいです
肥後書いてありますが、担当は岡山藩の池田忠雄だそうで
(岡山城の記事でもちょろっと出てきましたね)
こちら天守
桜と城の組み合わせはいつ見ても惚れ惚れします
桜って以外に撮るのが難しいですよね
内堀と極楽橋
その辺りから本丸に乗り込もうと思います
ううむ、良いアングル
近くにいた外国人が極楽橋の解説パネルを読みながら「ゴキュラキャ・バスィィィ(Gokurakubashi)」と発音していたのが印象的でした
少し順番が前後しますが、せっかくなので一発脱線しておきましょう(ぇ
(いくらか前に伏線張っちゃったんで、ちゃんと回収しないと)
まあ、「調べてまとめておきたい」という理由が7割ほどを占めているので、またか、と思いつつ流していただければ結構です( (
そもそも大阪城はなぜここに建てられたのか
この場所の北部には交通の要所である淀川(現:旧淀川、先程紹介した川です)が流れており、本拠地にするには結構いい場所でした
(京都との交流も楽々です)
そ し て
ここにはかつて石山本願寺が建てられていたことも一つの理由になっています
さて、石山本願寺とは…
では、時代を戦国時代初期へと少し遡りましょう
時は戦国、各地で下剋上や武将同士の衝突が繰り広げられた時代
そんな最中、仏教集団もまた例外ではありませんでした
当時勢いをつけていたのが一向宗(浄土真宗)と日蓮宗(法華宗)でした
この2つの勢力は日頃から自らの推しこそが最勝であると度々衝突していました
そんな宗教的な衝突に、武将の衝突が合わさりとんでもない争いになったのが、飯盛山城の戦い→山科本願寺の戦いです
こちらで一度紹介しましたが、もう一度軽くおさらい
元は畠山義隆の部下である木沢長政が義隆を裏切ったのが始まり
互いが仲間をいろいろ呼び寄せ、挙げ句一向宗と法華宗をも巻き込むことに
(飯盛山城の戦い)
結果は木沢長政・一向宗㌠の勝利で終わりましたが、ここで調子に乗った一向宗がこの際日蓮宗以外の宗派もぶっ潰そうと暴走し始めました
これには仲間だった木沢長政たちも難を示し、法華宗と共にこの一向宗を討つことに
法華宗や六角氏からもフルボッコ☆にされた一向宗は、挙げ句本拠地であった山科本願寺も燃やされました*2
(山科本願寺の戦い)
以上が復習
ボコボコのズタボロにされた一向宗は、滋賀の山科本願寺から大坂にあった石山御坊(大坂支所的なもの)へ移転
ここをキャンプ地本拠地とし、名前を石山本願寺に改めました
石山御坊と言っても今の寺の概念からは遠くかけ離れており、寺内町を中心に石垣や御門を備えた一種の要塞でした
というか、もう城ですこれ
城郭都市です
ほら、お城のゲームにも出てきますよ、石山御坊さん
(後ろの飾り(光背?)に描かれているのは本願寺の紋、下り藤です)
この時代の仏教集団は戦国武将に匹敵する勢力であったことはおわかり頂けるでしょうか
この寺と名ばかりの城で一向宗は武将たちと戦いながら、その城を着々と強固なものへとしていきました
やがて石山本願寺は甲斐の武田氏や相模の北条氏、かつての敵であった六角氏や細川氏と同盟を結び、天皇にまでも接近し黄金時代を築き上げていました
最早武将と同格です
そんな中やってきたのが、皆さんおなじみの…
第 六 天 魔 王 織 田 信 長
(中学の頃の教科書ですね。眼鏡かけた信長よりずっと立ち悪い)
戦国一の宗教集団 VS 尾張の覇王
ですが、信長といえどもこの石山本願寺の持つ強固な城壁はそう簡単に突破できませんでした
その石山本願寺と信長による11年に及ぶ長きにわたる戦いは、後に石山合戦と呼ばれました
(11年間ずっと戦い続けていたわけではなく、途中和睦中断も挟みつつ互いに勢力を拡大しながら続けられました)
石山合戦は数々の戦いの一連の流れを呼ぶもので、その数々の戦いからいくつかの戦いをピックアップします
・野田城・福島城の戦い
(環状線で大阪から西に行ったらあるあの辺りです)
15代将軍足利義昭を奉じて上洛した信長は、京都にいた三好三人衆を追放
追放された三人衆は野田城・福島城を建て信長と対峙するも、雑賀・根来連合軍が信長の援護に回ったため不利な状況に
この戦いに便乗したのが石山本願寺
本願寺が対信長勢力に加わったことで浄土真宗の門徒であった雑賀・根来衆も対信長勢力に付き形勢逆転
(自分たちの信仰する宗派のトップが信長と戦うのであれば、そちらに付かざるを得ません)
そのスキを突き、浅井・朝倉連合軍(対信長勢力の一つ)が京都に攻め入り、天台宗の延暦寺もここに参戦(志賀の陣) 信長敵多すぎだろ
流石にまずくなったので、信長は浅井・朝倉連合軍を討つことを優先し撤退しました
これが信長と本願寺による長き戦いの始まりでしたーー
一乗谷城*3の戦いで朝倉軍が滅亡、小谷城*4の戦いで浅井軍が滅亡し、本願寺は強い味方を失うことに
信長は本願寺勢力である長嶋の一揆衆(信者集団)と越前の一揆衆をぶっ潰し、本願寺はますます苦しい状況に
・天王寺の戦い
苦しい状況に置かれた本願寺でしたが毛利軍が信長包囲網に加わったことにより再び信長を攻めるも、大敗
以降、信長により周囲に10の城が築かれ、本願寺はもはや陸上では戦えない状態となりました
・第一次木津川口の戦い
陸路による補給を完全に絶たれた本願寺は毛利軍(中国地方の武将)の支援を受け、西の海側より物資を補給
そこへ織田軍が攻撃を仕掛け激突
毛利方の毛利水軍・小早川水軍・村上水軍と織田方の九鬼水軍が争うも、この時は信長方がやられました
さすが瀬戸の水軍は違いますね
余談ですが、この毛利方にいる小早川水軍を指揮したのが小早川隆景です
ここに出てきた三原城の城主です
・紀州征伐
次々の自身の敵をなぎ倒していく織田信長、今度は紀州の雑賀孫市率いる雑賀衆を攻撃
信長方優勢の後、講和によって終結。
・第二次木津川口の戦い
信長サイドの水軍である九鬼水軍のリベンジ
これにより、本願寺勢力は厳しい籠城戦を強いられることとなりました(詰み)
・講和
流石にもう戦い続けることができなくなったので、本願寺方は信長に有利な講和条件を飲み、紀伊の鷺森の方へ撤退していきました。
こうして長期にわたる戦いの末信長の手に渡った本願寺
何より注目すべきなのは、信長に攻められるも武力による開城はしなかった、ということ
石山本願寺がいかに強固な城だったかおわかりいただけたでしょうか
(もう寺じゃないし、住んでるのも坊主じゃないだろ)
余談ですが、この間映画館でけいおんの映画を観ていました
ロンドン行きてぇな… でも英語さっぱりだしな…
と思ったことは置いておいて…
映画前の予告集でこんなものを見つけたんですよね
「信長の忍」という何気に声優が豪華なアニメの番宣なのですが、今やっているのがちょうど姉川・石山編と今回ご紹介した部分だったんですよね
正直、こんな文眺めているより、こっちを観た方がずっと分かりやすいと思うんですよね(
それだけです(
話を戻しましょう
この石山本願寺の跡地に建てられたのが、大阪のシンボルとして名高い大坂城です
(戦国時代から安土桃山時代へ一気にワープ)
(写真は大坂城 - Wikipediaより拝借)
何か違和感を覚えたのであれば鋭いっ…
後ほどお話しましょう
こっちもゲームで実装されていたりします
(旧verは石山御坊ちゃんをレベリングすればちゃんと進化できたのにな…)
この大坂城が再び歴史の舞台となるのが豊臣秀吉の死後である関ヶ原の合戦以後
時代は安土桃山時代から、江戸時代の初期へ
東軍に破れ土地を削減されるも、豊臣家は依然高い地位に君臨していました
徐々に反発するようになってきた豊臣家が目障りになってきた徳川家康は、方広寺鐘銘事件を口実に豊臣家を討伐することに
方広寺鐘銘事件とは、豊臣家が再建した方広寺にあった鐘銘(鐘に書いてある銘文)に、徳川家を呪う文が刻まれていると文句をつけた事件です
具体的には「国家安康」が「家康」の文字を分断していることから家康の身を切断することを暗示、「君臣豊楽」が豊臣家の繁栄を願っていることを示しているといういちゃもんでした
家康「お前これ喧嘩打っとんちゃうか?」
当然豊臣側も誤解を解こうとするわけですが、家康はこれを聞き入れず。
大坂の役へと発展していきます
大坂の役は大坂冬の陣と大坂夏の陣の2つからなる戦いで、夏→冬ではないので要注意です
豊臣と徳川が衝突するということで、明石全登や後藤又兵衛、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永らが豊臣軍の元へ集まりました。
あるものは徳川に復讐をするため、あるものは豊臣家への忠義のため、またあるものは豊臣家復興のために、強大な徳川へと立ち向かいました
籠城して疲弊させるか、畿内を制圧して近江で徳川を迎え撃つか
豊臣側で意見が分かれるものの、最終的にはこの強固な城塞で籠城戦を行うことになりました
さて、先述の通り大坂城は石山本願寺を踏襲した城のため、非常に強固な作りとなっています
それがこちら
こちらは以下の資料を参考に、それっぽく作った当時の大坂城周辺地図
(川とか結構適当です)
大阪市城東区:猫間川 (…>区のプロフィール>城東区を流れる川)
ご覧の通り、北を淀川、東を平野川、西を東横堀川と天然の要塞をフルに活用した地形となっています
ただ唯一、南だけは空っぽの堀があるだけで、結構脆い部分になっていました
(そこに作られたのが真田丸です)
こちら南に築かれた真田丸
ここで徳川の攻撃をひたすら耐え、疲弊させた後に有利な講和を引き出そうとしました
大坂冬の陣勃発当初は周辺(野田やら鴫野やら)で戦っていたものの、豊臣側の連戦連敗で全ての砦を放棄
籠城した豊臣軍を徳川軍がぐるりと囲む形になりました。
(この際、真田丸の戦いにて豊臣軍が徳川軍に一矢報いることに成功しました)
徳川軍は用意していた海外製のカルバリン砲やセーカー砲を用い、大坂城へドッカンドッカン
さすがの大坂城も、当時最新鋭の大砲には敵いません
やがて膠着の末、互いの兵糧不足や疲労により徳川主導で講和が持ちかけられました
(この辺りで徳川方は真田幸村をなんとか自軍に入れようと交渉するも、幸村は「例え国の半分を貰えるとしても寝返りなどはしない」と豊臣家への忠義を尽くした、なんて話も)
この条件の中に含まれていたのが、二の丸、三の丸、惣構の破棄
これにより大坂城は本丸と内堀だけの丸裸状態になってしまいました
(南の方に置かれた真田丸もこのときに廃却)
講和により戦いは終結
しかし次の戦いの準備が着々と行われていました…
講和から5ヶ月が経ち、双方の緊張状態もついに決壊
大坂夏の陣が始まりました
そして、次の戦が始まるのです
郡山城の戦い(近鉄郡山駅付近)では徳川方の城を落とすことに成功するものの、紀州攻めの際に起きた樫井の戦い(日根野付近)では惨敗
続く八尾・若江の戦い(大和路線八尾駅の辺り)では藤堂高虎率いる徳川軍を壊乱させるも、木村重成率いる豊臣軍の敗戦により撤退
同日の道明寺の戦い(近鉄道明寺線の辺り)では後藤基次が戦死、途中真田繁信が伊達政宗の軍を押すも、上の八尾・若江の戦いの敗戦で撤退
天王寺・岡崎の戦いでは真田繁信の奮闘により一時は徳川家康に肉薄、家康は自害をも覚悟したほど
しかし、数に勝る徳川軍に対し徐々に押され、ついには敗戦
真田繁信もこの戦いで戦死しました。
敗戦続きの豊臣軍、城を守る堀も既に無く、徳川軍の進行をただただ受け入れるしかありません
徳川軍が次々と大坂城内に乗り込み、ついには 炎 上
天下人の居城として君臨した大坂城も 落 城
城は灰燼に帰すのみでした
豊臣秀吉の息子であり豊臣方の主君である豊臣秀頼も、秀吉の側室である淀殿と共に自害
(こちらは城内にある墓)
そして、豊臣家は滅亡となりました…。
大坂城の栄誉と崩落
そんなドラマがここには眠るのです…
あとは簡潔にまとめましょう
豊臣家滅亡後、大坂は幕府の直轄領(大名ではなく将軍家自らが管理)となり、この大坂城も徳川家のものになります。
城も二度にわたる戦いでボロッボロに、改修の必要がありました。
きっとこんなかんじ
余談ですが、上の娘はこの「錦城」ちゃんです。
大坂城の別名ですね
上部に六文銭が描かれているので、夏の陣時の大坂城という考察も
まあ、このボロボロ大坂城ですが、二代将軍の徳川家忠の時代に大改修されます。
どれぐらいの劇的ビフォーアフターかと言いますと…
before | after |
---|---|
なんということでしょう
あの黒を基調に金の鶴や虎をあしらった豪華絢爛な大坂城が、白漆喰の壁と青い瓦で構成された THE TOKUGAWA な城に変貌しました(画質)
名古屋城のような城と言えば分るでしょう
ほら、もう別人よこの娘
名古屋城ちゃん寄りですね、もう
で、この徳川大坂城はなんと、豊臣大坂城の上に土を盛って作ったという…
なので、豊臣大坂城の遺構は完全に土の中です
この後、ちょくちょく改修、修繕を繰り返しながら江戸期を過ごしていきますが、1665年の落雷で天守が焼失しました。
戊辰戦争での徳川慶喜籠城,退去を経て、大阪城は新政府軍に明け渡されました。
その後、この大阪城は陸軍の敷地となり、東側にはアジア最大規模の大阪砲兵工廠が設けられました。
(ここで作られた兵器は城東線(現:大阪環状線天王寺~京橋~大阪)を経て出荷されたそうで)
1928年に昭和天皇即位記念の一環として大阪城の天守閣が再建されました。
これが現在に残る大坂城です
ざっとまとめると
初代:豊臣大坂城 (夏の陣かその後に破却)
二代目:徳川大坂城 (寛文期の落雷で焼失)
三代目:明治大阪城 (現存)
といった感じですね
この後、太平洋戦争による米軍の空襲で周辺は焼け野原に
大阪砲兵工廠もあったことから、ガッツリ狙われ、幾多の櫓が焼失しました。(おのれアメ公め)
運よく(ほんとに運よく)天守閣は残りました…
戦後、大阪城一帯の陸軍用地は占領軍に押収されました
この時、占領軍の失火により紀州御殿が焼失しました(おのれアメ公め)
工廠跡地は大阪城公園として整備されたほか、線路の向こう側は国鉄の車両基地(現:森之宮電車区)や地下鉄の車庫などになりました。
安土桃山時代には豊臣家の中心となり世を治め
江戸時代には徳川の城として大坂に君臨し
明治時代以降は陸軍の用地になり、アジア最大規模の砲兵工廠として栄え
今は大阪のシンボルとして広く愛されています…
そんな大阪城だからか、いつもより多めに脱線してしまいましたね…(
さぞ疲弊したことでしょうから、あとはこれに付け込んで有利な講和条件を…( (
大阪城自体は小学校にやった郷土学習の一環で調べているのですが、改めて調べなおしてみると中々奥深いもので…
今回の脱線は8割方、調べたことのメモのようなものですね…(
そろそろ戻りましょう(
はい、こちらが大阪城です
ポストカードにもなっているアングルで一枚
日が桜に当たっていないのが少し惜しい
松と天守
この大阪城、一見徳川時代の大坂城を模しているように見えますが、実は異なるところが一つあります…
そう、5層目のところです。
この明治大阪城は、1層目~4層目が白漆喰壁の徳川大坂城を模しているのですが、5層目は黒漆の豊臣大坂城を模しているという、いわば折衷建築になっているんですよね…w
賛否両論だそうで
(私は好きですが)
桜に焦点を当てて
城と桜はなぜこうもマッチするのでしょうか
ここまでやってきた自転車くんとも一枚
エレベーターがよく見えますね
(1995年の平成の大改修の時に設置されました)
ノ ル マ ク リ ア
アオサギ兄貴オッスオッス
桜門の桝形(入ってすぐの所)にあるこの石垣、推定130トンと言われている巨石で、イギリスのストーンヘンジにある最大の石の約3倍もあります
どうやって持ってきたんでしょうね
桜門(さくらもん)
明治期に再建されたものです
なぜここは空っぽなのか
未だに謎だそうで
多門櫓
明治時代の再建です
千貫櫓
江戸期から残る遺構です
千貫櫓と大手門
石山本願寺の跡地に建てられた豊臣大坂城を埋め立てて建てられた徳川大坂城の跡地に建つ現大阪城なので、ざっくりとしか分からないのでしょうね…w
京都東山にある豊臣秀吉を本尊とする豊国神社の別社として創建されたもの
現在は独立し、秀吉のほかに子の秀頼と、異父兄弟の秀長も祀られています
外堀と大阪ビジネスパーク一帯
右手に見えるのがパナソニックのTWIN21と松下IMPビルです
(ちょうどIMPとTWIN21の片方が重なっていますが)
極楽橋と
再び桜と
南の桜門から本丸を出、ぐるっと北まで戻ってきた形になりますね
大阪城を後にし、再び京橋(橋の方)の方へ
5000系同士のすれ違いですね
2020年までに引退する方針だそうで
再びさっきの橋で撮り
5000系と桜の競演もあと何回か
平日は運用が決まっているので、比較的追いやすい形式です
(5ドアですからね)
さて、大阪城も一通り見終わったので、今度は環状線沿いをぶらりしていきましょう
というわけで、今回はここまでとさせていただきます
おかしいなぁ… 春に更新始めたはずなのに、もうセミ兄貴がミンミン鳴いておられるぞ…
まあ、平日は学畜、休日はバイトと課題でみっちりなわけですから、更新できる日がまずないんですよね…
月に一回あるかないかの休日にちょくちょく更新していきましたが…
早いですね、時の流れも…
平成最後の夏、相変わらずバイトぐらいしか予定のない私はちびちび更新していこうと思います
では、以上