新春の京の都に魅せられて ~その4 悠久な貫禄と光の世界、君が歩んだ100年間~
どうも、お久しぶりでない既望路です。
お久しぶりでない私はお久しいですね(何言ってんだこいつ
-追記-
結局、完成しないままテスト期間に突入したので、いつもお通りの「お久しぶり」ですね(
前回の末に少し書きましたが、既に完成しかけていた記事を二つに分けての投稿です。
これで読むのにフルマラソン並みの体力を要する当ブログも、ハーフマラソン並に落ち着いたかと思います。
(4km走って膝の靱帯が炎症を起こした私にとっては、どのみち不可能な距離ですけどね)
さて、うん百年ぶりぐらいの短期間投稿 (追記:ry)
早く本題へと参りましょう
では、どうぞ
JR西ご自慢の新快速で京都駅に帰って来た私たち
白い大根がお出迎えです。
ちなみに、金閣寺や大徳寺がある北大路は京都タワーと同じ高さ。
という話を聞いたので実際に調べてみると、そんなこともありませんでした(
というのも、京都タワー自体は131mなので、標高100mの千本通とは30m差ですが、ここに京都タワーが建っている場所の標高を足せば、150m程になります。
なので、標高を含めたうえでの京都タワーと同じ高さの場所は…
北大路通りから千本通を北上した先にある、鷹峯の辺りになりますね
2014年のJR東海そうだ京都、行こう。キャンペーンで紹介された源光庵もこの辺りにあります。
ここは車一台がやっと通れるかという急な坂道に、市バスがグイグイと登ってくるので、中々面白い場所です(
ちなみに、この日に寄った伏見稲荷は2012年夏、二条城は2017年春、北野天満宮は2015年秋に選ばれています。
話を戻しましょう
向かった先はこちら
今は京都鉄道博物館に吸収されて、ブースの一つになっています。
この日は期間限定で頭出しが行われていました。
渋い巨体に掲げられた日章旗
黒、白、赤という単純な色の組み合わせながらも、その重厚感には心奪われるものが有ります。
せっかくなので、順番に撮影してきました。
歴史的変移を辿りやすくするため、製造順に紹介していきましょう。
まずは彼、1070形
このちっこい蒸気機関車は1900年ごろ、東海道本線全通に伴いイギリスから輸入された機関車、6200形・6270形*1が元の機関車です。
その改造車に当たるのが1070形で、支線の細々とした運用や入替機に使用できるように、車輪の軸を増やして、タンク車に改造したものです。
しかし、登場から50年弱経つと老朽化が顕著になり、廃止または民間へ譲渡されることとなりました。
この彼も民間へ譲渡された機関車の一つで、日鉄鉱業赤谷鉱業所にてその余生を過ごしていました。
結局1970年代までコキ使われた彼、製造から80年弱経っていました。
(JR西もびっくり)
引退後もひっそりと保存されていましたが、2008年にJR西が譲渡を申し入れ、日本唯一の同形式ということから譲渡が決定。
そして義経号移動までは梅小路最古の、そして唯一の明治時代製の機関車として、館内で保存されていました。
D52やC62などデカイ機関車の色が濃いですが、それらよりも遥かに古い機関車がひっそりといるものです。
8620形の8630号機
イギリスやドイツ、アメリカの蒸気機関車を参考に作られ、本格的な量産型旅客車牽引機関車としては日本初の車両
通称は「ハチロク」
(夜の峠を複線ドリフトしたりはしません。)
汎用性を追求した設計で全盛期にはお召列車の牽引から急行、鈍行、入替機にまで使用され、その活躍ぶりは「鉄路のあるところ、ハチロクの機影見ざるはなし」と言われたほどで
そんなハチロクですが、現在はこの梅小路と九州の方で運行されています。
九州で走っているハチロクは58654号機とやたら長い名前で、この付番方法がなんとも特殊です。
ハチロクの製造数はざっと700弱
8620がトップナンバーで以降は8621,8622… と続きます。
では、8699の次は8700か?
と言いたいところですが、8700は既にいました。*2
ということで、1万の位が繰り上げられ、8699の次は18620となりました。
以降は18621,18622... 18699,28620,28621... と1万の位に1を足して、8620から再び1ずつ足されました。
なんともややこしい
このハチロクは11番目と比較的浅い数字なので、そのような混乱は免れましたね
え?まいてつ? エロゲはお帰り下さい
9600形の9633号機
ハチロクがカローラとスプリンターのスポーツ…日本初の本格的な量産型旅客車牽引機関車に対して、キューロクは本格的な量産型貨物車牽引機関車として登場しました。
狭軌では不可能とされていた巨大ボイラーの採用を、ボイラーを台枠の上に載せるという発想で解決した車両。
しかし、重心が高くなってしまったため高速走行はできず。
力が強くかつ軸重が軽いということから、急こう配且つ線路が弱い路線で重宝され、国鉄最後の蒸気機関車作業に就いたのもこのキューロクでした。
C51形239号機
国内の線路を狭軌から標準機に改軌するかどうかの議論が、財政上の問題から消えて行ったときに登場した彼
狭軌でもこれだけ大きな機関車が作れるんだぞ!という説得も兼ねて作られたそうで
(ただ、狭軌ならどれだけ頑張ってもこの程度までしか作れないんだぞ!という説得であったという説もある)
お召列車専用機として選ばれた239号機
この239号機の最後のお召仕業に乗務した運転士は、長い間運転してきたこの239号機のことが忘れられず、転属先の区長にこの機関車をどうか可愛がってくれるよう懇願したそうで
そんな彼の願いが届いたのか、今でもこの京都の地で綺麗な姿で展示されています。
D50形140号機
9600形に代わる貨物用機関車として設計されたのがこのD50形
通称は「デゴマル」
当初は従軸(動輪の後ろについてるちっこい車輪)を持たない代わりに動輪を一つ増やす、5軸動輪の機関車として構想されていたらしいです。
そうなればE50になったのかもしれませんね
結構性能はよかったみたいですが、世界恐慌に見舞われ、製造は380両に留まりました。
以降の生産は機関車の代名詞、D51に受け継がれました。
D51登場までは、国鉄最重要機関車とも呼ばれたそうで、吹田機関区ではD50への厚い信頼から、D51の導入を拒否し続けたなんて逸話も
この形式は巨大乾電池給水温め器が前に付いていますね
煙突の前にあったり、フロントデッキにあったりと、色々違いが見られますね
C53形45号機
鋼製客車の製造にあたり、機関車の力不足が顕著な問題となった鉄道省
この問題を解決すべく、3シリンダ型の機関車の実現を目指して作られたのが当機関車
このシリンダというのは、要するに気筒でしょう。蒸気の圧力でピストンを動かす部分です。(きっと)
車は4気筒よりも6気筒の方が力強くて、静か
それと同じように、このC53形も従来の2シリンダ式から更にシリンダを追加することで、力が増強されました。
しかし、この3シリンダ式、狭軌設計故に色々と問題が発生したそうで
(第3シリンダーの潤滑油切れが多発し、走行中に命がけで給脂をしないといけないなんてことも)
結局鉄道省、国鉄と、以降に3シリンダー式の機関車は作られませんでした。
最初で最後の3シリンダということですかね
ちなみに、乗り心地は大層よく、牽引力もあったことから乗務員には人気だったそうで
そして、個人的にこのC53が持つ迷要素としては、C53形43号機が挙げられますね。
初め見た時には、驚きのあまり顎が外れてそのままどこかに無くしてしまった、という経験があったりなかったり(
当時は、車から日用品に至るまでの流線形ブームだったそうで、この700系みたいな蒸気機関車もそんな時代の中で生まれました。
一度でいいから見てみたかったこの変な機関車(
さて、そんな進んだ技術を搭載したC53でしたが、2シリンダーで同出力を持つC59の登場により主力の座から撤退、整備が色々厄介で脆いことから早いうちに廃車となってしまいました。
そんな中、この45号機だけが教材用として残され、後に大阪の交通博物館に保存されました。
そして、現在はこの京都の梅小路でその日本唯一の3シリンダ機関車は保存されています。
余談ですが、この特徴的なフロントデッキに開いた、小さな4つのくぼみ
これは作業用の踏み場だそうで
除煙板が無く、フロントデッキも大きい彼の姿は中々印象的でした。
C58形1号機
ハチロク並みの速度とキューロクのパワーを持つ機関車として製造されたのが、このC58形
製造開始が1938年と、徐々に戦争の色に染まりつつある頃に生まれた機関車で、所々が簡略化された作りだそうで
幻の機関車であるC63形はこの機関車を更に近代化したものだったそうで
・・・。
いや、特徴が無くて文章が箇条書きっぽいものになったわけでは無いですからね!( (
太平洋戦争の終焉が近い1944年
この機関車も改軌を行ったうえで、戦地へと送り届けられました。
ただ、この時日本の制海権は既にボロボロ
海を渡ったC58も、途中で米軍の空襲を受け冷たい海の底へ
今も海底では彼が静かに眠っているのでしょうか…?
魚たちの巣にでもなっていれば、それはそれで少し気持ちが和らぎますかね
さて、この1号機ですが、ご覧の通りのお召仕様です。
しかし、この1号機が実際にお召をけん引したことは無いとのことで…w
あくまでも、お召"仕様"ということですかね
C59形164号機
経済状況が良くなり、日中戦争へも突入した日本は故障の多いC53に代わる、新たな機関車の需要が高まっていました。
そこで輸送力強化も兼ねて、2シリンダー式でありながらC53を上回る性能を持つ機関車として開発されたのがこのC59形です
重心を前方に寄せるためにボイラ長を長くした当車両は、国鉄型機関車史上最長のボイラ長となりました。
車輪の摩耗が異様に激しいなどの欠点を抱えるも、お召機としても重宝されたことから、その信頼が伺えますね
東海道本線の特急運用が始まると、この列車も「平和」や「つばめ」、「さくら」に「かもめ」など様々な列車をけん引しました。
元々高規格の路線でしか走ることを想定していなかったため、地方のしょぼい低規格の路線への転用は簡単にはできませんでした。
結局、要塞地帯である呉を通る呉線など、東海道山陽本線並みの規格を持つ一部の路線に転用されました。
(あの呉線が昔は本線並みの規格だったんですね)
そして、一部のグループは低規格の路線でも走れるように改造を施し、C60形と改めた上で転用されました。
(蒸気機関車にも近鉄のような、改造に伴う形式変換が行われたんですね…)
各地で電化、ディーゼル化が進み、まだまだ使えるにも関わらず当形式は早い段階に廃車となりました。
末期運用は呉線・山陽本線での運用で、161号機、162号機、164号機が使用されていました。
あの有名な急こう配区間であるセノハチを抱える山陽本線での運用。C62も一緒にいましたが、空転しにくいということで急行の限定運用に入るなど、大変重宝されたようで
そんな彼も呉線の電化でお役御免
161号機と162号機は廃車、164号機のみが動態保存機としてここ梅小路に転用されました。(残念ながら、今は動きません)
ちなみに、この164号機はセノハチ運用の名残として、走行中開放を行う装備が連結器に残っています。
そして、面白い種類のC59がもう一つ。
それが127号機で、これはなんと重油を燃やして動いていたそうで
後ろのテンダーにも、石炭ではなく重油が詰め込まれ(しっかり改造を施した上で)、ゆのくに専用機として京都~米原を走ったそうで
電気機関車と張り合えるぐらいの高出力を持っていましたが、やがて東北の方に転用されたのちに廃車されました。
D52形468号機
戦争が激しくなるにつれ、海上での物資輸送は増々危険に
そこで、D50形やD51形がけん引する1.5倍の1500t級の貨物をけん引することができる機関車が要望されました。
そこで登場したのが彼、D52
最大出力1660馬力と日本の蒸気機関車では最強の出力を誇ります。
(EF200は約8000馬力らしいので、そうしてみると可愛いものですね…w)
その特徴はなんと言っても幅広いボイラ
(個人的主観に基づく特徴ですけど)
D51を凌ぐ大きなボイラが重量を寄せるために、前にグッと付き出ている訳ですから、その重量感は一目ぼれものですよ…(
ただ、物資が不足する戦時中に作られたわけですから、除煙板(左右の板)や歩み板などは木で代用されるなんてこともあったそうで
それに加え、「戦機として使うだけだから3~5年持てばそれでいい」と209系もびっくりな論で、各メーカーがどこまで簡略化し代用品でやり過ごすことができるか、という競争を繰り広げたなんて話も
終戦後は石炭輸送が終了し、トラブルが日常茶飯事だったD52は早くも一部が廃車にされました。
製造から僅か4年でしたから、これにはE331もびっくりですね
キハ285系「」
残る車両は装備改装を行い、ある車両は旅客用のC62形へ転換、あるものは低規格路線対応のD62形へと改造され1972年まで使用されました。
この468号機はD52形のラストナンバーでありますが、実はD52は285両目しか製造されなかったんですよね…w
というのも当初は492両作る予定でしたが、終戦により製造が打ち切られてしまったそうで。
よって200ぐらいの欠番が産まれています…w
B20形10号機
戦時中、小型機関車の需要が高まったことから製造された当機関車
その重さは先ほどのD52に比べて、1/3である20tです。
初めは国鉄の郡山工場にて5両製造されました。
そして残りのB20は、各大手メーカーがD52の製造に追われていたため、富山の立山重工によって製造されました。
15両のB20が揃うことには戦争も終結。
輸送状況もガラリと変わり、米軍の基地で貨車の入替作業に徹したり、機関区で無煙状態の機関車を入れ替えたりと、細々と活動していました。
結局、最後まで使用されたのは1号機と10号機のみで、残りはその特殊すぎる仕様のためにあっさりと整理されてしまいました。
残った2両も実用的な作業というよりは、マスコット的な意味合いで残されていました。
蒸気機関車全廃後は動態保存の形で残される予定でしたが、うまく動かなかったため静態保存へ
そして、2002年に梅小路蒸気機関車館30周年、JR西日本発足15周年を記念して復活プロジェクトが行われ、見事自走できる状態に復活しました。
今はこの梅小路の地にて、無煙状態の機関車を入れ替えたりと、昔と変わらぬ小さな活躍を見せています。
C61形2号機
C61形が登場したのは戦争終結後の1947年
戦時中は貨物輸送に力がそそがれ、D51形やD52形の製造が集中的に行われました。
ですが、戦争が終結すると物資不足により貨物運用は激減。貨物牽引機は手持無沙汰となりました。
一方で、復員や買い出しなど旅客輸送は激増。C58形やC59形等の旅客牽引機の増備が望まれていました。
余った貨物牽引機と、足りない旅客牽引機
この二つの問題を一度に解決すべく、この機関車は誕生しました。
それが、貨物牽引機の旅客牽引機への改造です。
製造数1000両を超える超ベストセラー機関車であるD51形
これのボイラに新造した足回り等を取り付け、生まれたのがC61形です。
当時出回っていた石炭は質の悪いものばかりで、大量の石炭を投入することが求められました。
そこで登場したのが自動給炭機で、本形式が初の採用となりました。
製造後は、同様の理由で製造されたC62形に比べ牽引力が2割程劣ることから、地方幹線で主に使用されました。
東北地方や鹿児島本線を中心に走っていたC61、全盛期は「はつかり」や「はくつる」、「日本海」に「はやぶさ」など、多くの優等列車をけん引していきました。
各線の電化、無煙化により1974年、日豊本線での運用を最後にその終焉を迎えました。
現在、C61形2号機がここ梅小路で動態保存
SLスチーム号の牽引機として、活躍しています。
(車籍は残っていますが、全般検査を受けていないため本線走行はできないそうで)
そして群馬のとある公園で生体保存されていたC61形20号機が、JR東日本の懸命なる努力の末に再び煙を上げることとなりました。
C62形1号機
最大の旅客牽引機として知られるC62形は、上記のC61形と同様の理由で製造されました。
C61形がD51形からの改造に対して、こちらはD52形からの改造に当たります。
ボイラ部分をD52形から、下回りはC59形から拝借して製造されました。
国内最大の動輪の上に、国内最大のボイラを乗せた破格の大きさを誇るC62形、全高3980mmと車両限界ギリギリだったそうで
そのため、煙突やドームが最低限に抑えられ、汽笛も斜めに装着するなど、細かな工夫が見られます。
とくに問題もなく動いたC62形は下関から宇都宮まで幅広く配置されました。
やがて、東海道本線の浜松以西に運用が絞られると3シリンダのC53形を淘汰する形になりました。
戦後の復活により運行を開始した」「つばめと「はと」
これらの牽引もC62形に代わり、ここから東海道本線電化まで、C62形の黄金時代が始まります。
1954年には木曽川橋梁の強度測定のために、C62形が単機で爆走
結果、129km/hと狭軌蒸気機関車史上最速の記録を叩き出しました。
1958年にはブルートレイン幕開けとなった「あさかぜ」の運行開始
これもC62形によってけん引されました。
東海道新幹線が開通した1964年
山陽本線の電化が完了し、C62形が特急から撤退。
しかし、その翌年には上野~青森を結ぶ「ゆうづる」にて、再び運用されることになりました。
ただし、製造から16年も経っていたC62形が定時運行を継続するためには色々と問題があり、通常の石炭では出力不足に陥りました。
結局、北海道夕張産の高カロリー石炭と樹脂を混合させた、特性石炭を用いての運用となりました。
当時の乗務員からは特級豆炭と言われたそうで
そして現在は、SLスチーム号の牽引機として活躍しています。
C62形2号機
こちら、先ほどのC62形と同じもの。
原則として若い番号が保存されることとなっていましたが、除煙板に描かれたツバメのマークが人気を博し、2両保存されることとなりました。
こちらも現在は、かつて自身が「つばめ」としてかけた東海道本線のすぐ隣を、SLスチーム号の牽引機として活躍しています。
7100形 7105号機
おまけですね
7100形は北海道初の鉄道である官営の鉄道、幌内鉄道の車両として使用されていました。
東海道線の1号機関車など官営の鉄道はイギリス式であったため、車両もイギリスが用いられていましたが、この幌内鉄道はアメリカ式で建設されました。
そのため、この7100形はアメリカから輸入された機関車となります。
北海道開拓使によって運行された当路線ですが、開業から9年後には炭鉱鉄道に払い下げられています。
(国会開設への一歩である開拓使官有物払下げ事件が起きたのもこの辺りでしたね)
更に7年後に再び国有化され、当列車も国の車両に
国有化後も北の大地で細々と働いていましたが、登場から33年経った1923年に廃車されました。
それから29年後である1952年は鉄道開通80周年であったため、7105号機と7106号機が復元されることとなりました。
見事復活を果たした7105と7106はそれぞれ、鷹取と苗穂にて保存
その後、7105は交通博物館を経てここ梅小路、現京都鉄道博物館に
7106は小樽市総合博物館にて保存されています。
この7100形、それぞれ愛称が付いています。
(ただし、7号機と8号機は無名)
1号機は「義經」
牛若丸の名で知られる、源義経が由来となっています。
2号機は「辨慶」
3号機は「比羅夫」
4号機は「光圀」
徳川水戸家の二代目、徳川光圀に由来。水戸黄門として有名ですね
5号機は「信廣」
室町時代後期の武将、武田(蠣崎)信広が由来。コシャマインの戦いにてアイヌ軍を制圧しました。
6号機は「しづか」
「義經」と「しずか」を復元させたのは、そういった縁があったのかもしれませんね…
(ついでに大宮の鉄道博物館にも弁慶が保存されています)
現在、この「義經」は2014年に自走できるよう復元されています。
なぜかいたDE10
解説は省略しますね(蹴
鉄道の開通から始まり、国産化に至り、世界恐慌を乗り越えて、数々の改造と牽引力強化が行われ、戦争の中でも絶えることなく製造され、戦後の華やかな特急街道、ブルートレイン登場にも携わり、消えて行った蒸気機関車
そんな100年間にも渡る、蒸気機関車の歩みをざっと眺めて行きましたが如何だったでしょうか?
蒸気機関車があって、今の鉄道が成り立っている。蒸気機関車は文化の遺産だ。
そんな言葉も聞きますが、こうして深く調べてみると、その悠久の時を経て積み重ねられてきた重みが伝わってきますね…
蒸気機関車は見た目が似たものが多いので、いまいちパッとしない車両ですが、これを機に少し目を向けて頂ければ幸いです…。
私自身、蒸気機関車に対する見方が大きく変わったのは確かだと思います。
さて、気が付けば9000文字を超えていました。
皆さん、生きていますか…?( (
おかしい… 前回と今回を二部に分けて、スッキリした構成になるはずだったのに…
蒸気機関車の説明に時間をかけすぎたのが原因でしょうね。
(うん、それしかない)
というのも、今回は参考文献(?)にいつものWikipediaさんに加え、近所の古本屋で買った鉄道ファンも参考にしたため、いつもより情報量がうんと増えてしまいました…w
以下、参考文献の詳細
所々、カラーで載っている写真もあるので、興味があれば古本屋等で探してみてください
当然、今回説明した蒸気機関車が全てではありません。
(頭出しされていない機関車や保存されていない機関車などまだまだたくさんいます。)
いつか機会があれば、そちらの方も少しづつ紹介していきたいですね。
さて、戻りましょう。
こちら、義経号のプレート
1880年製と書かれていますね
咲夜さんもご一緒に
厳つく、勇ましい彼ら
ほんとにカッコいいですね…
古くからこの国で活躍していたという貫禄がにじみ出ています…
暮れなずんでいる夕空と
シュコー
ライトアップが始まりました。
古くから使われていた設備も、ひっそりと残っています。
硬いボディを照らす
大人気のアングルのようで…w
夕焼け空を望む鳳凰
菊の紋章がキラリと咲いた
古傷浮かぶ、煙の中
白い世界で、ずっしりと
名物の転車台も、幻想的な世界の一部に
光るレールの先は、きっと知らない世界
小さな豆タンクも、暖かな光の中に
大きなシロクニも、同様
床下には煙を出す装置が
こりゃ見ちゃいかんやつでしたな(
黄金色の貫禄
刻まれた数字の一つ一つが、輝きを照り返しています
蒼い汽車
行き先は銀河の果て、ですかね
パノラマ撮影で一枚
そこに映るは光と汽車の、幻想世界
チョコレート色の旧型客車も、艶やかに照っています
淡い光と、滲む貫禄と、不思議なひと時と、
京都のとある一角であることなど、すっかりと忘れてしまいます…。
それはきっと、蒸気機関車だからこその景色…
また、機会があれば訪れたいものです…。
ただいま京都駅
再び京都駅へと戻ってきました。
ホームに上がると、287系の回送が
お前、そんな幕あったのか…
(幕回し中に)
やってきたのは京都駅の山陰線乗り場
手持ちのフリー切符はJR線にも対応しているので、大回り乗車では乗れない区間を少し探索
乗車したのはこちらの223系
流石、223系好き
運用はしっかりと押さえているようで
やってきたのは亀岡
原則京都市内のみの切符ですが、亀岡も範囲内でした。
次に来た列車で再び京都駅へ戻ります。
確か、寝ていました(
昼食を省いていたので、奮発して大盛に
冷えた体が温まっていきます。
地下鉄四条駅から阪急烏丸駅に乗換
南北に走る地下鉄が十条、九条、京都、五条、四条… と東西の通りを駅名に
東西を通る阪急は大宮、烏丸、河原町と南北の通りを駅名に採用しています。
こんな違いも京都ならでは?
(京阪線も七条、(清水)五条、(祇園)四条、三条、(神宮)丸太町、と東西の通りから取っていますね)
フリー切符なので、ガンガン乗換
やってきたのが終点河原町
そこでちょいとお買い物
遅い時間に訪れたので、店が閉店しました(
最後は新たな戦利品と共に京阪8000系に揺られて帰宅です
新しい咲夜さんが増えたよ!
やったね!既望路ちゃん!
おいバカやめろ
8000系の全面にあるテーブルで戦利品を並べるオタクたち
横の咲夜さんクリアファイルとレミリア様のストラップは223系好き氏の戦利品
夜の特急は人が全然いないので、割と恥じらいなくできちゃいますね(
(三条駅からどっさり乗ってきます)
フリー切符から普通切符にチェンジするため、一度降車
上手いこと流れてくれました
片目をぱっちりウインク
下ライトは通過標識灯なんですよね
最後は8000系の快速急行に乗車し、再び朝223系好き氏がホームとの間に足を突っ込んだ駅へ( (
(そろそろ本人からクレームが来そうだ)
ちなみに、現在は快速急行は7連での運行
各駅停車用の車両で運行されるので、ちょっと残念な気分
(次の改正でそれが増えるので、尚更残念です…w)
こうして、日の出から日没後まで続いた京都初詣旅行は終了します。
ええ、やっと終わりましたよ
もうゴールしてもいいんですよ
というわけで、お疲れ様でした。
そして私にもお疲れ様。
もう頭が痛いので、そろそろ休みたいんですよね…w( (
二度目となった京都初詣でしたが、今回もあっちにいったりこっちに行ったりと大忙しでした。
(途中、京都飛び出ましたからね)
毎度毎度、こんなクソ長い記事に付き合って頂いて、読者の方々には感謝の念しかございません…
適度に魔材を補給しながら読むことをお勧めしますね(
かれこれ2か月続きましたが、今回でちゃんと終わりました。
よかったよかった、ちゃんと終われました。
(B20とC61書いた後にPC落ちて、文章飛んだ時にはどうなるかと思った)
さてさて、お次の予告ですが…
お次は、山登りのお話です。
ジャンルとしては… 歴史ですかね?
深く踏み入れすぎないように気をつけたいと思います…w
こうして、一つ一つ記事を終えていくごとに、大型遠征編が近づいているのが分かります…
関東方面でお出かけする記事はうんと先になりますが、そちらの方も首を長くしてお待ちください。
(完成するころには首だけ大気圏に突入していることでしょう。)
次回は早期更新に努めますので、楽しみにして頂ければ幸いです
では、以上!